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【入試批評・国語】2022共通テスト・本(現代文)

学力を測るのは難しい。「学力を測る」という行為そのものが、「学力」なるものを規定するからに他ならない。

事実、センター試験から共通テストにかけて、この直近十数年の変容を見るだけで、試験が測ろうとしている「学力」観は大きく変容しているように思う。

論理的な文章(評論)の題材について

小林秀雄のような、文体で物を言わせる批評家の文章は、おそらく金輪際出題されないであろう。もちろんその背後に、ベルクソンのような西洋哲学を含め、複雑な思考の体系があったことは理解されても良い。しかし、文芸の領域に属するとも言えそうな「批評」は、大学入試の評論としてはすでに消えつつある。それらの多くは、アカデミックな領域に寄りつつある。

あるいはその限界が、鷲田清一内田樹だったのではないか。それぞれ、メルロ=ポンティレヴィナスという哲学的なバックボーンを抱えながら、それぞれが自由に「哲学的」思考を繰り広げていた。そうした文章は、今ではすっかり少なくなってしまった。

今、書店に並び、いわゆる「インテリ」に好まれる本は、概説書か入門書であろう。しかし、入試問題で読ませたい評論とは、もう少し広い視野で、物事と向き合っている文章である。ある哲学者の思想を、著作に沿ってまとめなおしているだけの新書から出題したいわけではない。

そうなると、ある程度同時代的に見てアクチュアルな問題系をはらみつつ、特定領域の入門書として以上の広い視野と筆者の独創性が無ければならない。そうした著作は存外に少ない。いや、明らかに減りつつあるとすら言っていいだろう。

その中で、今回の共通テストの第1問に、檜垣立哉『食べることの哲学』が選ばれたのは、当然のなりゆきと言える。(その点で、過去の北海道大学神戸大学との出典被りも致し方ないと言えよう。)

「「食べる」ことと「生」にまつわる議論は、どうしたところで動物が主題になってしまう」という一行から始まり、「自らを変容させていくことしか解決策はない」と締めくくられる引用箇所は、言ってみればドゥルージアンである筆者の著作の一番美味しいところを持ってきたように思う。

惜しむらくは、これよりも前の部分がもう少しあっても良かったように思われることだ。そのように思われるのも、第1問でもうひとつの題材文となった藤原辰史『食べるとはどういうことか』に物足りなさを感じるからだ。

檜垣立哉の文章は、檜垣立哉の文章でなければならない大きな理由があったように思う。そこに檜垣立哉の独創性を見ることもできたろう。しかし、藤原辰史の方はそうではない。前半部分は、単に消化機能の概説である。単に読者を豚肉になぞらえる書きぶりが面白いというだけで、内容に独創性はない。

そして結論は、「二つの極端な見方」に収斂する。「人間は、生命の循環の通過点にすぎないのであって、地球全体の生命活動がうまく回転するように食べさせられている」という考え方と、「世の中は食べもので満たされていて、食べものは、生きものの死によって、つまり生きものに生を与えるバトンリレーである」という考え方。

畢竟、引用されるとしたらそこだけで良かったろうし、そのために削れる分量で檜垣立哉の文章を読ませた方が良かっただろう。複数テクストの情報処理を優先させるあまり、文章Ⅰの檜垣立哉のような優れた文章をなくなく削り、文章Ⅱのような「テーマが共通する部分」というだけで切り取られたつまらない文章を読ませられるのは苦痛この上ない。(これは藤原辰史の文章が劣っていることを意味するものではない。が、出典においてもこの箇所は、「読ませたい」箇所ではないに違いない。)

ちなみに、藤原辰史の引用部分については、高校入試頻出の福岡伸一の『動的平衡』のような文章で代替可能である。テーマや概念で言えば、これは高校入試レベルなのだ。

「テーマが共通している」という理由だけで、文章を寄せ集めるべきではない。真にそれが比較して読むに値する文章かは考慮されねばならない。今回で言えば、「食べる」という概念について、文章を通じて理解・思考できるかということを問いたいのであれば、文章Ⅰだけで十分であった。

第1問の設問について

第1問は、従来漢字の出題が5問あったが、今回はそのうち2問の出題形式が変わった。「異なる意味を持つものを……それぞれ一つずつ選べ」と言うのだが、比較的簡単な問題だっただろう。ただ、これはこれまでと同じ要領で語彙力を測ろうとするのであれば画期的な方法と言える。

例えば、(ウ)を例に見ていこう。

本文で傍線が引かれているのは、「その微生物たちがあなたを襲い、」という箇所である。これが「侵す」という意味であることはそう難しい話ではない。ただ問題は、問いの選択肢の4つ、すなわち①ヤ襲、②セ襲、③キ襲、④ライ襲のカタカナ部分を頭の中で漢字に直せたうえで、意味が分かるかということなのだ。正解は②であるが、これはセ襲とあるのを、「世襲」と直したうえで、それが「代々うけつぐこと」という意味だということが分かり、それが「侵す」という傍線部の意味と異なるということが分からなくてはならない。言葉に対する感覚が鋭敏であり、読み→書き→意味の連関が比較的スムースにいく受験生でなくては、案外落とした箇所かもしれない。(分かりやすく言えば、できない子はとことんできない問題だと思う。)

問2は普通の読解問題で、「ここからよだかが、つぎのように思考を展開していく」に傍線が引かれている。ここからその次に引用される宮沢賢治よだかの星」の一部分を要約した選択肢を選べばいいのか、と思いきや、そうではない

読むべきは、さらにその次にある、筆者による引用部分の総括だ。こうした類の文章において重要なのは、「引用されているテクスト」そのものではなくて、「それに対する筆者の解釈」であるということは、ある種の常識だが、それが分からず宮沢賢治の文章に何分間も唸っていた人がいたかもしれない。そもそも作品の一部分を切り取ってきているだけなのだから、引用者のガイドもなしに、引用されているテクストの思考が読み取れるはずがない。この辺りは、日ごろの国語の授業でも触れていてほしいところだ。

問3も読解問題で、「人間である(ひょっとしたら同時によだかでもある)われわれすべてが共有するものではないか」に傍線が引かれているが、( )内のいかにも現代思想の哲学者とでも言うべき口ぶりに惑わされずに、傍線部直前の「それは」という主題の指示語が指す内容を追えばいいだけだ。

そこで本文の直前を見る。「ここで宮沢は……だけをとりだすのではない。むしろここでみいだされるのは」以降が筆者にとって重要であることは自明であろう。そこを、次のように端的にまとめたい。

「(A)心が傷ついたよだかが、(B)それでもなお羽虫を食べるという行為を無意識のうちになしていることに気がつき (C)「せなかがぞっとした」「思ひ」をもつ

このように、A、B、Cに分割すると、選択肢もそれぞれA、B、Cに対応する形で三分割できるのが分かるだろう。

まず、Aから点検する。よだかの心が傷ついているのは、5ページの最後にあるように「むしろよだかにとって問題なのは、どうして自分のような惨めな存在が生きつづけなければならないのかということであった」ということであるから、「自己の生への疑念」のためである。この点から③、④は消したい。

次に、Bに対応している箇所を点検していると、①の「動物の弱肉強食の世界でいつか犠牲になるかもしれないと気づき」が反対のことを言っていることに気がつき、消せるだろう。重要なのは、よだかが無意識に自分が他者に危害を及ぼしていることへのうろたえであって、自分が危害を及ぼされるという問題ではない。

この時点で、②と⑤に絞れるわけだが、C「「せなかがぞっとした」「思ひ」」に対応している箇所を見ていくと、比較的簡単に⑤「自分の身勝手さに絶望する」が消せ、②「自己に対する強烈な違和感を覚える」のほうが適当だと選べるだろう。

問4については、私見では「二つの極端な見方」について、相違点を見出す方が受験者にとっては難しかったはずである。直球勝負で、似ているところを選べば良いだけだから、それほど難しい問題ではない。

問5は、従来小説で出題されていたような表現に関する問題である。評論であっても書きぶりに自覚的に読まねばならないということはあるから、こうした出題が悪いわけではない。しかし、誤答の作り方がいかにも惜しい。①は、「印象的に表現されているのは心情ではない」、②は、「比喩的にかつ厳密に描くことはできない」、③「擬態語を用いることで筋道立てられているわけではない」、挙句、⑤の「生きものが消化器官でかたちを変えて物質になる」とは日本語として意味不明である。

問6のⅰは端的に選べたはずであるが、ⅱのまとめ方がいかにも厭らしい。要するに、文章Ⅰだけを読んでいると、「他の生物に対して加虐的に働いてしまう自己を否定し、その連鎖から解放されたい」(従って、断食して星になろうとする)というメッセージを読み取ってしまい、絶滅主義者か自殺志願者になりかねないところを、文章Ⅱによって、「そうした加虐的な衝動も、巨視的には許されるんじゃない?」と強引に補正しているわけである。これでは結局、檜垣立哉の文章も、藤原辰史の文章も、両方を殺したのと同じことだろう。

文学的な文章(小説)の題材について

第2問は黒井千次の「庭の男」からの出題であった。そもそも黒井千次は、柄谷行人津島佑子と結託して、小林多喜二をけなすような鼎談をやっていたから、個人的には食わず嫌いをしていた。しかし、なかなか今回の作品は面白い。

ただ最も面白い部分が、リード文で消化されてしまっている。この作品で最初に面白いのは、おそらく、こちらを見つめる看板に描かれた男を見ながら、「私」が「自分が案山子をどけてくれと頼んでいる雀のようだと感じていた」という思考の飛躍であろう。だとすれば、せめてそこも引用してほしかった。

「私」─こちらを見つめる看板に描かれた男、という関係が、雀─案山子に比喩的に対応するという構造は、もう少し深堀りするべきところであって、リード文でさりげなく通り過ぎてしまうには余りに惜しい箇所だったのではないか。

二重傍線部「案山子にとまった雀はこんな気分がするだろうか、と動悸を抑えつつも苦笑した」という一文の持つ奥行きは、辞書的な語義と歳時記などによって解体されるよりも、作品自体に耽溺することによって生きるものであったろう。

第2問の設問について

第2問の、従来の問1が削除された。文中の表現に線が引かれ、「文中における意味として最も適切なものを選べ」というような問題である。

従来の問1は、別に辞書的な慣用表現を覚えておこうというだけのものではない。要するに、「文中における意味」というのが重要なのであって、字句通り直截には解釈できない部分を持ってきて、文脈をなぞれているかということを問うていたわけである。(実際には辞書を引けば答えが出てくる、という安易な問題が出ることも少なくなかったとは言え。)

それが、今回の問1のような問題に置き換わったのだとすれば、レベルが下がったと言わざるを得ない。

問2も簡単だった。文中の表現にこだわらずとも、傍線部を読んだ直感で解けたはずだ。

問3については、「あ奴はあ奴でかなりの覚悟でことに臨んでいるのだ、と認めてやりたいような気分がよぎった」というこれまでの心情からの転換が問題である。実際には、「認めてやりたい」という心情を言い当てている選択肢でズバリ③が選べないこともない。(こういうのは記述で問うたら面白いところだろう。)

問4は、同一の人物や事物の呼称についての意味という点で、表現にこだわって読む、「国語の授業」的小説読解のひとつともとらえられるが、それにしては誤答の作り方が雑である。

ⅰは②と③に絞られるだろうが、おそらく②に決められる決め手は、③では、少年を「君」と呼んで尊重している様子(タテマエ)と、少年の外見や言動を内心では「餓鬼」と侮っている(ホンネ)が並列されているからバツということになるだろう。つまり、②のように、「君」という丁寧な呼びかけから、「餓鬼」という蔑みに変化したというところが重要なのだ。ただ、これはあまりにセンシティブな誤答の作り方で、かなり危うい。(③を正答とする解釈も、案外編み出せるのではないか。)

ⅱの問題は、②は「あのオジサン」という呼称は敬意を示すことにはなっていない、③は「素敵な絵」というのは物扱いではないのか、④は論理自体が不自然(はっきり言って、選択肢が何を言いたいのか未だによく分からない)という点で消せる。

ただし、①の「素敵な絵」とたたえた直後に「あのオジサン」と無遠慮に呼んでいるというのが、「余裕をなくして表現の一貫性を失っ」ているというのは、あまりに深読みが過ぎるのではないかとも思う。そもそも、「あのオジサン」という呼称が無遠慮なものであるのか(「ジジイ」という、より無遠慮そうな呼称が登場するのにも関わらず)、そして何より、そのあたりの箇所には「私」が余裕をなくしているという描写が無いのだ。

個人的には、傍線部B以降、隣の少年に話しかけた「私」は存外冷静だったのではないかと読める。「素敵な絵」というのも、「あのオジサン」というのも、それこそ「ジジイ」が「餓鬼」に歩み寄ってみせている部分だと解釈できよう。

さて、そんな問4が悪問だとするのなら、問5は大悪問である。

まず、「案山子」が登場したというので、辞書で「案山子」を引いてみた。ここまではよろしい。しかし、そこに「季語・秋」とあったので歳時記を引いてみた、これが分からない。このNなる人物は、「二重傍線部……について理解を深めようとした」と言うが、本当にそのために辞書を引き、辞書から歳時記へ誘導されたのだと言うのだとしたら、それはとても正気だと思えない。

百歩譲って、案山子と雀が登場する俳句3句を許したとしよう。(別の文学作品の表現を参考に、対象テクストの表現を解釈する、というのは、別にあってはならない方法ではない。)

だとしたら、この「ノート」なるものにある網掛けの「●解釈のメモ」という部分が要らない。「●解釈のメモ」というか、これでは解釈そのものである。解釈を書くのなら、俳句を引用する必要などない。事実、問題を解くうえでも、俳句そのものを見て解いた馬鹿者はほとんどいないだろう。ほとんど全ての受験者が、対応する「●解釈のメモ」を見て問題を解いたはずだ。そしてそれで解けてしまうというのが問題である。

それによって導き出されたⅱの「私」の認識・心情への解釈も、俳句を経由するなどという必要は感じられない。

正答は⑤であるが、「はじめ「私」は、常に自分を見つめる看板に対してⓐ「群雀空にしづまらず」の「雀」のような心穏やかでない状態」というのから意味が分からない。「はじめ「私」は、常に自分を見つめる看板に対して心穏やかでない状態」と書けば分かる話だろう。「看板は㋑「見かけばかりもっともらし」いものであって恐れるに足りないとわかり」も、「看板は恐れるに足りないものとわかり、「ただの板」に対して悩んできた自分に……」で十分通じる。そして何より重要なのは、こんな複数テクストとは関係ない、「自分に滑稽さを感じている」という箇所と、二重傍線部「苦笑した」の対応である。

「学力」観

この試験の現代文が問おうとしている「学力」観をなんと表現すればいいのか、難しいところだ。

例えば、理想的な複数テクストの出題のあり方としては、テクストAへの理解が、テクストBによって深まる、というようなあり方であろう。

しかし、今回の共通テストは、テクストAを読んだうえで、そこに整合的なテクストBが乗っけられているものを選ぶ、というような形で、選択肢が熱海の旅館みたいになっただけなのだ。

これが読解力? いや、これでは情報処理能力すら測れているか怪しいものだ。特に、今回も第1問文章Ⅰと、第2問の出典は素晴らしかったのだから、そこに受験生を溺れさせるような問題で良かったろうと思う。複数テクストを読ませようとして、結局どちらのテクストも読めていないというようなことでは元も子もないのではないか。

【入試研究・国語】2022共通テスト・本(現代文)

学力を測るのは難しい。「学力を測る」という行為そのものが、「学力」なるものを規定するからに他ならない。

事実、センター試験から共通テストにかけて、この直近十数年の変容を見るだけで、試験が測ろうとしている「学力」観は大きく変容しているように思う。

論理的な文章(評論)の題材について

小林秀雄のような、文体で物を言わせる批評家の文章は、おそらく金輪際出題されないであろう。もちろんその背後に、ベルクソンのような西洋哲学を含め、複雑な思考の体系があったことは理解されても良い。しかし、文芸の領域に属するとも言えそうな「批評」は、大学入試の評論としてはすでに消えつつある。それらの多くは、アカデミックな領域に寄りつつある。

あるいはその限界が、鷲田清一内田樹だったのではないか。それぞれ、メルロ=ポンティレヴィナスという哲学的なバックボーンを抱えながら、それぞれが自由に「哲学的」思考を繰り広げていた。そうした文章は、今ではすっかり少なくなってしまった。

今、書店に並び、いわゆる「インテリ」に好まれる本は、概説書か入門書であろう。しかし、入試問題で読ませたい評論とは、もう少し広い視野で、物事と向き合っている文章である。ある哲学者の思想を、著作に沿ってまとめなおしているだけの新書から出題したいわけではない。

そうなると、ある程度同時代的に見てアクチュアルな問題系をはらみつつ、特定領域の入門書として以上の広い視野と筆者の独創性が無ければならない。そうした著作は存外に少ない。いや、明らかに減りつつあるとすら言っていいだろう。

その中で、今回の共通テストの第1問に、檜垣立哉『食べることの哲学』が選ばれたのは、当然のなりゆきと言える。(その点で、過去の北海道大学神戸大学との出典被りも致し方ないと言えよう。)

「「食べる」ことと「生」にまつわる議論は、どうしたところで動物が主題になってしまう」という一行から始まり、「自らを変容させていくことしか解決策はない」と締めくくられる引用箇所は、言ってみればドゥルージアンである筆者の著作の一番美味しいところを持ってきたように思う。

惜しむらくは、これよりも前の部分がもう少しあっても良かったように思われることだ。そのように思われるのも、第1問でもうひとつの題材文となった藤原辰史『食べるとはどういうことか』に物足りなさを感じるからだ。

檜垣立哉の文章は、檜垣立哉の文章でなければならない大きな理由があったように思う。そこに檜垣立哉の独創性を見ることもできたろう。しかし、藤原辰史の方はそうではない。前半部分は、単に消化機能の概説である。単に読者を豚肉になぞらえる書きぶりが面白いというだけで、内容に独創性はない。

そして結論は、「二つの極端な見方」に収斂する。「人間は、生命の循環の通過点にすぎないのであって、地球全体の生命活動がうまく回転するように食べさせられている」という考え方と、「世の中は食べもので満たされていて、食べものは、生きものの死によって、つまり生きものに生を与えるバトンリレーである」という考え方。

畢竟、引用されるとしたらそこだけで良かったろうし、そのために削れる分量で檜垣立哉の文章を読ませた方が良かっただろう。複数テクストの情報処理を優先させるあまり、文章Ⅰの檜垣立哉のような優れた文章をなくなく削り、文章Ⅱのような「テーマが共通する部分」というだけで切り取られたつまらない文章を読ませられるのは苦痛この上ない。(これは藤原辰史の文章が劣っていることを意味するものではない。が、出典においてもこの箇所は、「読ませたい」箇所ではないに違いない。)

ちなみに、藤原辰史の引用部分については、高校入試頻出の福岡伸一の『動的平衡』のような文章で代替可能である。テーマや概念で言えば、これは高校入試レベルなのだ。

「テーマが共通している」という理由だけで、文章を寄せ集めるべきではない。真にそれが比較して読むに値する文章かは考慮されねばならない。今回で言えば、「食べる」という概念について、文章を通じて理解・思考できるかということを問いたいのであれば、文章Ⅰだけで十分であった。

第1問の設問について

第1問は、従来漢字の出題が5問あったが、今回はそのうち2問の出題形式が変わった。「異なる意味を持つものを……それぞれ一つずつ選べ」と言うのだが、比較的簡単な問題だっただろう。ただ、これはこれまでと同じ要領で語彙力を測ろうとするのであれば画期的な方法と言える。

例えば、(ウ)を例に見ていこう。

本文で傍線が引かれているのは、「その微生物たちがあなたを襲い、」という箇所である。これが「侵す」という意味であることはそう難しい話ではない。ただ問題は、問いの選択肢の4つ、すなわち①ヤ襲、②セ襲、③キ襲、④ライ襲のカタカナ部分を頭の中で漢字に直せたうえで、意味が分かるかということなのだ。正解は②であるが、これはセ襲とあるのを、「世襲」と直したうえで、それが「代々うけつぐこと」という意味だということが分かり、それが「侵す」という傍線部の意味と異なるということが分からなくてはならない。言葉に対する感覚が鋭敏であり、読み→書き→意味の連関が比較的スムースにいく受験生でなくては、案外落とした箇所かもしれない。(分かりやすく言えば、できない子はとことんできない問題だと思う。)

問2は普通の読解問題で、「ここからよだかが、つぎのように思考を展開していく」に傍線が引かれている。ここからその次に引用される宮沢賢治よだかの星」の一部分を要約した選択肢を選べばいいのか、と思いきや、そうではない

読むべきは、さらにその次にある、筆者による引用部分の総括だ。こうした類の文章において重要なのは、「引用されているテクスト」そのものではなくて、「それに対する筆者の解釈」であるということは、ある種の常識だが、それが分からず宮沢賢治の文章に何分間も唸っていた人がいたかもしれない。そもそも作品の一部分を切り取ってきているだけなのだから、引用者のガイドもなしに、引用されているテクストの思考が読み取れるはずがない。この辺りは、日ごろの国語の授業でも触れていてほしいところだ。

問3も読解問題で、「人間である(ひょっとしたら同時によだかでもある)われわれすべてが共有するものではないか」に傍線が引かれているが、( )内のいかにも現代思想の哲学者とでも言うべき口ぶりに惑わされずに、傍線部直前の「それは」という主題の指示語が指す内容を追えばいいだけだ。

そこで本文の直前を見る。「ここで宮沢は……だけをとりだすのではない。むしろここでみいだされるのは」以降が筆者にとって重要であることは自明であろう。そこを、次のように端的にまとめたい。

「(A)心が傷ついたよだかが、(B)それでもなお羽虫を食べるという行為を無意識のうちになしていることに気がつき (C)「せなかがぞっとした」「思ひ」をもつ

このように、A、B、Cに分割すると、選択肢もそれぞれA、B、Cに対応する形で三分割できるのが分かるだろう。

まず、Aから点検する。よだかの心が傷ついているのは、5ページの最後にあるように「むしろよだかにとって問題なのは、どうして自分のような惨めな存在が生きつづけなければならないのかということであった」ということであるから、「自己の生への疑念」のためである。この点から③、④は消したい。

次に、Bに対応している箇所を点検していると、①の「動物の弱肉強食の世界でいつか犠牲になるかもしれないと気づき」が反対のことを言っていることに気がつき、消せるだろう。重要なのは、よだかが無意識に自分が他者に危害を及ぼしていることへのうろたえであって、自分が危害を及ぼされるという問題ではない。

この時点で、②と⑤に絞れるわけだが、C「「せなかがぞっとした」「思ひ」」に対応している箇所を見ていくと、比較的簡単に⑤「自分の身勝手さに絶望する」が消せ、②「自己に対する強烈な違和感を覚える」のほうが適当だと選べるだろう。

問4については、私見では「二つの極端な見方」について、相違点を見出す方が受験者にとっては難しかったはずである。直球勝負で、似ているところを選べば良いだけだから、それほど難しい問題ではない。

問5は、従来小説で出題されていたような表現に関する問題である。評論であっても書きぶりに自覚的に読まねばならないということはあるから、こうした出題が悪いわけではない。しかし、誤答の作り方がいかにも惜しい。①は、「印象的に表現されているのは心情ではない」、②は、「比喩的にかつ厳密に描くことはできない」、③「擬態語を用いることで筋道立てられているわけではない」、挙句、⑤の「生きものが消化器官でかたちを変えて物質になる」とは日本語として意味不明である。

問6のⅰは端的に選べたはずであるが、ⅱのまとめ方がいかにも厭らしい。要するに、文章Ⅰだけを読んでいると、「他の生物に対して加虐的に働いてしまう自己を否定し、その連鎖から解放されたい」(従って、断食して星になろうとする)というメッセージを読み取ってしまい、絶滅主義者か自殺志願者になりかねないところを、文章Ⅱによって、「そうした加虐的な衝動も、巨視的には許されるんじゃない?」と強引に補正しているわけである。これでは結局、檜垣立哉の文章も、藤原辰史の文章も、両方を殺したのと同じことだろう。

文学的な文章(小説)の題材について

第2問は黒井千次の「庭の男」からの出題であった。そもそも黒井千次は、柄谷行人津島佑子と結託して、小林多喜二をけなすような鼎談をやっていたから、個人的には食わず嫌いをしていた。しかし、なかなか今回の作品は面白い。

ただ最も面白い部分が、リード文で消化されてしまっている。この作品で最初に面白いのは、おそらく、こちらを見つめる看板に描かれた男を見ながら、「私」が「自分が案山子をどけてくれと頼んでいる雀のようだと感じていた」という思考の飛躍であろう。だとすれば、せめてそこも引用してほしかった。

「私」─こちらを見つめる看板に描かれた男、という関係が、雀─案山子に比喩的に対応するという構造は、もう少し深堀りするべきところであって、リード文でさりげなく通り過ぎてしまうには余りに惜しい箇所だったのではないか。

二重傍線部「案山子にとまった雀はこんな気分がするだろうか、と動悸を抑えつつも苦笑した」という一文の持つ奥行きは、辞書的な語義と歳時記などによって解体されるよりも、作品自体に耽溺することによって生きるものであったろう。

第2問の設問について

第2問の、従来の問1が削除された。文中の表現に線が引かれ、「文中における意味として最も適切なものを選べ」というような問題である。

従来の問1は、別に辞書的な慣用表現を覚えておこうというだけのものではない。要するに、「文中における意味」というのが重要なのであって、字句通り直截には解釈できない部分を持ってきて、文脈をなぞれているかということを問うていたわけである。(実際には辞書を引けば答えが出てくる、という安易な問題が出ることも少なくなかったとは言え。)

それが、今回の問1のような問題に置き換わったのだとすれば、レベルが下がったと言わざるを得ない。

問2も簡単だった。文中の表現にこだわらずとも、傍線部を読んだ直感で解けたはずだ。

問3については、「あ奴はあ奴でかなりの覚悟でことに臨んでいるのだ、と認めてやりたいような気分がよぎった」というこれまでの心情からの転換が問題である。実際には、「認めてやりたい」という心情を言い当てている選択肢でズバリ③が選べないこともない。(こういうのは記述で問うたら面白いところだろう。)

問4は、同一の人物や事物の呼称についての意味という点で、表現にこだわって読む、「国語の授業」的小説読解のひとつともとらえられるが、それにしては誤答の作り方が雑である。

ⅰは②と③に絞られるだろうが、おそらく②に決められる決め手は、③では、少年を「君」と呼んで尊重している様子(タテマエ)と、少年の外見や言動を内心では「餓鬼」と侮っている(ホンネ)が並列されているからバツということになるだろう。つまり、②のように、「君」という丁寧な呼びかけから、「餓鬼」という蔑みに変化したというところが重要なのだ。ただ、これはあまりにセンシティブな誤答の作り方で、かなり危うい。(③を正答とする解釈も、案外編み出せるのではないか。)

ⅱの問題は、②は「あのオジサン」という呼称は敬意を示すことにはなっていない、③は「素敵な絵」というのは物扱いではないのか、④は論理自体が不自然(はっきり言って、選択肢が何を言いたいのか未だによく分からない)という点で消せる。

ただし、①の「素敵な絵」とたたえた直後に「あのオジサン」と無遠慮に呼んでいるというのが、「余裕をなくして表現の一貫性を失っ」ているというのは、あまりに深読みが過ぎるのではないかとも思う。そもそも、「あのオジサン」という呼称が無遠慮なものであるのか(「ジジイ」という、より無遠慮そうな呼称が登場するのにも関わらず)、そして何より、そのあたりの箇所には「私」が余裕をなくしているという描写が無いのだ。

個人的には、傍線部B以降、隣の少年に話しかけた「私」は存外冷静だったのではないかと読める。「素敵な絵」というのも、「あのオジサン」というのも、それこそ「ジジイ」が「餓鬼」に歩み寄ってみせている部分だと解釈できよう。

さて、そんな問4が悪問だとするのなら、問5は大悪問である。

まず、「案山子」が登場したというので、辞書で「案山子」を引いてみた。ここまではよろしい。しかし、そこに「季語・秋」とあったので歳時記を引いてみた、これが分からない。このNなる人物は、「二重傍線部……について理解を深めようとした」と言うが、本当にそのために辞書を引き、辞書から歳時記へ誘導されたのだと言うのだとしたら、それはとても正気だと思えない。

百歩譲って、案山子と雀が登場する俳句3句を許したとしよう。(別の文学作品の表現を参考に、対象テクストの表現を解釈する、というのは、別にあってはならない方法ではない。)

だとしたら、この「ノート」なるものにある網掛けの「●解釈のメモ」という部分が要らない。「●解釈のメモ」というか、これでは解釈そのものである。解釈を書くのなら、俳句を引用する必要などない。事実、問題を解くうえでも、俳句そのものを見て解いた馬鹿者はほとんどいないだろう。ほとんど全ての受験者が、対応する「●解釈のメモ」を見て問題を解いたはずだ。そしてそれで解けてしまうというのが問題である。

それによって導き出されたⅱの「私」の認識・心情への解釈も、俳句を経由するなどという必要は感じられない。

正答は⑤であるが、「はじめ「私」は、常に自分を見つめる看板に対してⓐ「群雀空にしづまらず」の「雀」のような心穏やかでない状態」というのから意味が分からない。「はじめ「私」は、常に自分を見つめる看板に対して心穏やかでない状態」と書けば分かる話だろう。「看板は㋑「見かけばかりもっともらし」いものであって恐れるに足りないとわかり」も、「看板は恐れるに足りないものとわかり、「ただの板」に対して悩んできた自分に……」で十分通じる。そして何より重要なのは、こんな複数テクストとは関係ない、「自分に滑稽さを感じている」という箇所と、二重傍線部「苦笑した」の対応である。

「学力」観

この試験の現代文が問おうとしている「学力」観をなんと表現すればいいのか、難しいところだ。

例えば、理想的な複数テクストの出題のあり方としては、テクストAへの理解が、テクストBによって深まる、というようなあり方であろう。

しかし、今回の共通テストは、テクストAを読んだうえで、そこに整合的なテクストBが乗っけられているものを選ぶ、というような形で、選択肢が熱海の旅館みたいになっただけなのだ。

これが読解力? いや、これでは情報処理能力すら測れているか怪しいものだ。特に、今回も第1問文章Ⅰと、第2問の出典は素晴らしかったのだから、そこに受験生を溺れさせるような問題で良かったろうと思う。複数テクストを読ませようとして、結局どちらのテクストも読めていないというようなことでは元も子もないのではないか。